趣味の迷宮 ~LABYRINTHVS AD PARNASSVM~

作者Tiberius Felixの迷宮的な趣味に関する雑記帳。 主に音楽、映画、読書、語学、グルメなどの感想・論評を中心に、興味の赴くまま無秩序に迷宮的に書き綴っていくつもりです。

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続・マキァヴェッリストの京都はんなり強行軍~迷宮的旅行記第四章(2)

さて、昼食である。
豆腐をこよなく愛する私としては、ぜひとも本場の湯豆腐を味わってみたいところだった。

 しかし、京都で湯豆腐を食した人が皆、口を揃えてあんなのたいしたことない、値段ほどの価値はないという。

 そういわれてしまうとなおさら、自らの舌で確認せねば気がすまないのが私の性格である(苦笑)。というわけで、とある宗教施設(ようするに京都にたくさんある神社仏閣の類ですね)にほど近い、湯豆腐の老舗と呼ばれている某店へ向かった。

 かなりの行列ができており、だいぶ並ばされることになった。ようやく席に着くと、メニューは一種類しかないらしく、湯豆腐のコース内容を記した紙面を一覧せしめてこちらになりますがよろしいですか、というきわめて効率的な運営がなされていた。

 さて、豆腐が煮えるのを待つ間、いくつかの料理が運ばれてきた。ゴマ豆腐や豆腐の田楽焼きなど、ちょっとした豆腐百珍といった趣で、これはこれでなかなか美味しい。

 メインの湯豆腐が運ばれてくる。
 七輪に業務用固形燃料で加熱されるそれは火力の調節ができず、早く食べないと煮えすぎて豆腐が固くなってしまう。これは正直がっかりした。

 豆腐そのものは、確かに老舗だけあって品質がよく、豆腐本来の甘み、旨みといったものがしっかりと基礎を固め、滑らかな舌触りがなんとも心地よい。さらには薬味に供される七味唐辛子に一見似ている香辛料が、私が豆腐にとてもよく会う香辛料だと思っている山椒を強く利かせたもので、大変好ましく感じられた。

 しかし、中心部がちょうど人肌くらいに温まる、という湯豆腐が一番美味しい状態で食べられるのは、上記の欠陥ゆえにせいぜい半分くらい。あとの半分は、味をゆっくり味わわせることを阻害する過度の高温が味わいを損ねてしまっている。

 以上を総合的に勘案した結果、値段を上回る満足、というには少々厳しいものの、少なくとも改善の余地を感じさせる点を考慮すれば、値段ほどの価値なし、と斬って捨てるほどにはひどくない、というのが私の判断である。まあ、おおむね値段相応というところであろうか。

 湯豆腐のあとは和菓子を味わう。

 あの国民的美食漫画の原作者が、自らのエッセイでこの店のあんここそは日本一、すなわち世界一と折り紙をつけた 嘯月という和菓子店が京都紫野(大徳寺付近)にある。原作者本人の味覚感覚については賛否両論あるようだが、私は少なくとも彼の意見の内容を自らの舌で評価するに値する程度には信頼性があると考えている。実際、これまで試してみたことはおおむね同意できる結果が得られている。

 この店の最大の特徴は、事前に何月何日の「何時に(!)」取りに行くから、と納期を時間指定で明示した上で予約しないと作ってもらえないという完全受注生産をとっているところにある。ご店主が、生菓子はできたてでなければ本当の美味しさの半分も味わうことができないという信念をお持ちゆえに、このような厳しい生産管理を行っているのだという。

 京都人がこういうことをやりだすと、もしや一見さんお断りなのでは、といういやな予感がする。おっかなびっくり電話してみたのだが、幸いにして杞憂に終わり、店員さんがきわめて気さくに予約を取ってくれた。

 体験者の部ログ記事などを読んでいると、このお菓子の美味しさを完全に味わいきるためは一刻を争うらしいので、まずは最寄り駅近くのヴィヴレにイートインコーナーがあるのを見つけ、なるべく現場に近いところで食べる場所の確保を行う。そうしておいて電話で告げた予定時刻のきっかり五分前に店をたずねる。ちょうど梱包を終えたところのようで、限りなくできたてに近い状態である。大急ぎで件のイートインに駆け込み、早速ひと口食べてみる。

 ……ごく普通の、上等な生菓子の味のような気がする。

 確かに、出来たてだけあってあんのみずみずしさ、舌触りの滑らかさは特筆に価するものがある。しかし、味自体はごく普通の上等な生菓子じゃないか、と一口食べた時に私は思った。

 しかし、二口、三口でその生菓子の最初のひとつを食べ終えたとき、私は旗とその違いに気づいた。

 余韻が長いのだ。まるで、飲み込んだあとにもまだ口の中に存在し続けるかのように、いつまでも浸っていたいと思わせるような味の余韻が、非常に豊かに残るのである。しかも、単にさっきまで口にあったものの味が持続する、というのではなくて、それはあたかも美化された楽しい思い出のように、より洗練された味わいで残されるのである。たとえばこれがお茶会のお茶菓子だったら、お茶でこの余韻を消してしまうのがもったいなく感じられるのではないか。いやむしろ、逆に濃厚な抹茶の余韻とのハーモニーが生まれてより豊かな味わいになるのかもしれない。

 こんなすごいお菓子が、五種類五個詰め合わせで1,900円、一個200円を割っているという驚愕の良心的価格である。これほどの高品質で良心的価格の和菓子を、その気になれば毎日食べられるとは、恐るべき環境である。もしもこの町に住んでいたなら、私は間違いなく茶道を習っていたことだろう。もしまた京都に行く機会があれば、そのときはまたぜひともこの生菓子を味わいたいと思う。

  いつまでも消えぬ余韻を楽しみながら、私はいよいよアーノンクールの演奏するコンサートの会場へと向かっていった(続く)。
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