趣味の迷宮 ~LABYRINTHVS AD PARNASSVM~

作者Tiberius Felixの迷宮的な趣味に関する雑記帳。 主に音楽、映画、読書、語学、グルメなどの感想・論評を中心に、興味の赴くまま無秩序に迷宮的に書き綴っていくつもりです。

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対話の音楽~モーツァルトフォルテピアノ協奏曲全曲レヴュー(7)

 第九番変ホ長調「ジュノム」、K.271。

 実はこの曲は、私の得た情報の限りフォルテピアニストの中で一番人気のある曲と結論付けられる作品である。
というのは、同曲異演版の種類が一番多いのだ。
今回のシリーズの執筆に当たり、事前リサーチとして、私の持っているもの、もっていないものを含め、同時代楽器によるモーツァルトのフォルテピアノ協奏曲の録音の全体像を調査してみた。
 その結果、一番録音の多かったのがこの曲で、何と同曲異演版は9種に及ぶ。
参考までに私が知る全種の録音を上げておくと(括弧内はレーベル)、ビルソン(アルヒーフ)、インマゼール(チャンネル)、レヴィン(オワゾリール)、ソフロニツキ(プロムジカ)、シュタイアー(テルデック)、タン(ヴァージン)、スコダ(アルカナ)、コーエン(アストリ)、ニコルソン(カプリッチョ)の9種類である。

 一体何故、これほどまでに人気があるのか。

 正直、私はずっと理解に苦しんできた。

 21番のような目くるめく快感もなく、23番のようなあふれるメロディの魅力もなく、20番や24番のような激情もなく、27番のような枯淡の境地にもない。

 最近ようやく、その謎が解けた。
 この作品は、対話の音楽なのである。

 この作品は、冒頭のオーケストラのワンフレーズのあと、この時代の協奏曲としてはきわめて型破りにもいきなりピアノソロが現れることで有名なのだが、その構成の本質、それこそがフォルテピアノとオケとの緻密な対話なのである。

 私がこの曲の魅力に長年気づかなかった最大の理由は、今から考えてみればメロディの地味さ、サウンドの地味さだと思う。しかし、この作品の本質が「対話」の追及にあるのだとすれば、それは当然のことで、対話が成立するためにはオケとフォルテピアノが互いに互いの話を良く聴きながら、緻密な意思疎通を積み重ねていかねばならない。必然的に、片方が一方的な演説をぶち上げてしまっては対話にならないので、両者ともに節度あるメロディにならざるを得ないし、そうあるべきなのだ。

 私は幸いにして、大学時代、レコード芸術で評論活動をされている岩下眞好教授の音楽の授業に出席する機会に恵まれた。教授は授業の折、常々、音楽の本質は対話にこそ求められる、と語っておられたのだが、この曲の本質に開眼することができたのも、この言葉に示唆されたおかげである。

 ソフロニツキの演奏は例によって使用する楽器の艶のある音色を生かして朗々と歌う。オケも負けじとたっぷり歌う。それでいて、この曲の本質たる対話の精神は、見事に実現されている。

 同曲異演は9曲もあるので、すべてを聴きなおして比較するのは時間的に厳しい。

 特に印象に残った演奏を部分的に聴きなおして書くと、まずこの作品の演奏の白眉はシュタイアーである。切れ味鋭いオケに、才気あふれるシュタイアーのピアノが、丁々発止と対話をーあるいはここでは議論と言った方がふさわしいかもしれないー繰り広げる。何を隠そう、この曲の本質に目覚めた演奏はこの録音であったのだ。

 オケがピアノに劣らずニュアンスに富んだ発言をするインマゼールの録音も、対話の充実感はたっぷりである。また、ビルソンの録音も、フォルテピアノの語りの深みが大変豊かで、オケが少々淡白に過ぎるため対話というより独演会に近くなってしまって入るものの、この作品の「語り」の魅力を味わうには大変良い演奏だといえよう。

 いずれにしても、この曲は「語り」がわかるようにならないと良さがわからない作品だ。その意味では、かなりとっつきにくい部類に入るのではなかろうか。

 最も人気の高い曲であっても、モーツァルトのフォルテピアノ協奏曲の中では実はとっつきにくいほうなのではないかと私は考える。

 
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