趣味の迷宮 ~LABYRINTHVS AD PARNASSVM~

作者Tiberius Felixの迷宮的な趣味に関する雑記帳。 主に音楽、映画、読書、語学、グルメなどの感想・論評を中心に、興味の赴くまま無秩序に迷宮的に書き綴っていくつもりです。

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Membra Iesu Nostri

 不思議と新録音が出るたびに買ってしまう曲がある。

 今年没後300周年に当たる、北ドイツバロック中期の作曲家、ブクステフーデの「我らがイエズスの四肢」(Membra Iesu Nostri)というカンタータは、私にとってそういう曲のひとつだ。

 この作品はメロディの美しさがずば抜けており、知る人ぞ知る名作といえる佳品である。バッハが若いころ、ブクステフーデの作品を聞くためにライプツィヒからリューベックまで、地図上の直線距離でざっと450キロをはるばる歩いていったという話はとても有名だ。

 ブクステフーデはリューベックのマリア教会で楽長を長年務めた人である。リューベックはハンザ同盟都市の雄であり、プロテスタントの牙城であった。したがって、その教会音楽は基本的にはガチガチのプロテスタント音楽で、私の苦手な部類の作品である。

 しかしながら、この「我らがイエズスの四肢」だけは、非常に例外的な作品である。まず、歌詞がドイツ語ではなくラテン語である。しかも、プロテスタントが存在しなかった中世12世紀の神秘主義者による黙想の詩~そう、プロテスタンティズムとは対極をなす、ガチガチのカトリシズムの世界である~に作曲している。

 カンタータは詩の構造に従って、全体で7つの部分に分かれている。
 もともとは中世の恋愛詩の形式のひとつで、恋人の肉体の各パーツ(胸、足、顔など)についてフェティシスティックな愛情を歌うという形式があり、それを宗教詩に応用したものだそうだが、十字架上のキリストの肉体の7つの部分(足、ひざ、手、わき腹、胸、心臓、顔)について、その受難に関する宗教的な黙想を行うという内容である。キリスト教の宗教画によくある、一種マゾヒスティックな陶酔感がとても濃い内容なので、好き嫌いは分かれるかもしれない。

 しかしながら、詩の内容はともかくとして、音楽は非常に美しい。甘美な陶酔感、音響の美しさ、メロディの魅力、どれをとっても申し分のない作品である。歌詞の内容に引っ張られたのか、とても耽美的・神秘主義的で、プロテスタントくささがまったくないのである。さすがにイタリアの宗教音楽には決して聴こえないが、フランスの宗教音楽くらいには聴こえないこともない。そのくらい、カトリックな雰囲気の音楽だ。


 なぜプロテスタントの牙城の教会楽長がそんな作品を作曲したのかは資料が残されておらず、音楽学者の間でも謎とされているらしい。それもまた神秘的でいいかもしれない。

 今回、新たにRAUM KLANGレーベルから出たカッチュナー指揮ラウテン・カンパニーの演奏を購入したのだが、速めのテンポでメロディの美しさを素直に味わわせてくれる好演であった。それでいながら、陶酔感に不足は感じさせない。バランス感覚としてはかなり上々の部類に入る演奏だと思う。

 この曲は、その質の高さゆえか演奏家たちにも人気があるようで、こんなマニアックな作品にしては驚異的な数の同曲異演が存在する。

 ざっとあげるだけでもガーディナー、鈴木雅明、ヤーコプス、コープマン、ユングへーネル、ザ・シックスティーン、ネーヴェル……と、通常のこの時代の作品では考えられないほどたくさん録音されている。

 よく考えてみたら、私のコレクションでも同曲異演の種類の多さではかなり上位に属するほうだ。気づいたら、ベートーヴェンの運命や英雄の同曲異演コレクションよりもこの作品のほうが保有枚数は多い。それほど魅力のある、稀有な作品だということなのだろう。
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